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先月末、イーハトーブで安比に同宿した仲間達と別れた後、娘の七五三の前撮り写真が出来たとの連絡があり、一路高速で弘前市に向かいました。

その帰り、青森県は碇ヶ関の「道の駅関の庄」に立ち寄った時に何気に目に入ったのがコレです。




IMGP4168s-ブログ

なになに~、津軽街道とな..
それで何がどうしたって...
ふ~ん、七時雨山ね~...

んっ?、「な、なにぃっ~、ななしぐれ~!!」
びっくりさせるにもホドホドってものがありますぜ、だんな。

いやはや、たまげました。
七時雨山周辺を昔の主要街道が通っていたんですって!!

どう考えても標高が高いし超山奥だし、いくら昔でも人が通るということを容易に想像できない場所なだけに、なんかキツネにつままれたような感じでした。

「今まで知らなかったのかい?」
って地元の方の声が聞こえそうですが(笑、ホント知る由もありませんでした。
っていうか、七時雨なる場所を知ったのがつい最近のことなわけでWWW

知ったから別にどうこう云うこともないのですが、前に一度紹介した時がありますが、我が家のご先祖が幕末あたりに安比か竜飛のどっちかで斬られて死んだらしく、当時のこの地域のことが少しだけ気にかかっていたこともあり、ちょっとお勉強してみました。


これから先、マニアックにつき閲覧注意..笑


この津軽街道..

前出の画像に書かれてるとおりなんですが、もともとは鹿角街道と呼ばれてたようです。
近代の鹿角街道は七時雨山を避けて安比川沿いに迂回する路線(国道282号線)となって、通称も津軽街道に変わっています。
現在でも安代と二戸を結ぶ浄法寺経由の脇街道を鹿角街道と呼ぶのだそうです。

本道や枝道を含め呼び名に諸説あるようですが、私が思うに、津軽街道と呼ぶのは、盛岡城下から鹿角・小坂を経由して津軽藩の関所があった碇ヶ関で羽州街道(現在の国道7号)と合流するまでの区間をいい、一方の鹿角街道は鹿角(花輪)を分岐点として西に曲がり、私の住む大館で羽州街道に合流するまでの区間を指すのではと思っています。

江戸時代の鹿角街道(本道)は鹿角道とも呼ばれ、その道筋は城下盛岡を発し寺田、荒屋、田山を経て鹿角郡に入り、米代川沿いに花輪、神田、松山を通って土深井の藩境を越え秋田領十二所、扇田へと向かう北奥羽の横断路線であったようです。

また、関所と陣屋がおかれた「十二所」(大館)から十二所街道とも呼ばれ、古来から平泉の藤原氏や南部藩が鹿角の尾去沢鉱山の金や銅などの鉱物運搬で発展しました。
戦国時代には津軽氏、南部氏、秋田氏の領土が接する為戦乱が耐えなく、江戸時代に入ってからも境界線問題が何度も起きたというデンジャラスゾーンであったようですが、当時の南部領・鹿角は今は秋田県となっています。

この十二所は中世から重要な戦略上の拠点であり、戊辰戦争ではこの十二所口から南部軍の進行を受け十二所陣屋は炎上、町も焼け野原になったそうです。
この時の戦いで、靖国神社女性第1号の祭神となった女軍夫山城ミヨが戦死しています。

ウチの先祖は、こんな情勢の中で南部藩に何かの理由で潜入し斬られたのでしょうか?
想像は膨らむばかりです。


鹿角街道の地図です。

kazuno2.gif


左上、大館市の赤い■が私の住む集落です。
ノースが手を振ってるのが見えますか~(笑

盛岡城下から発する鹿角街道(津軽街道)が、イーハトーブトライアルの聖地「七時雨」を通り、私の家のすぐ目の前で終わる。。
やはり私は七時雨に導かれていたんですね!?...

と、ここでうまい具合に繋がりました(汗

大館にまつわるディープな歴史探訪。。
まだまだ続きますよん!

次回お楽しみに~!
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